2012年07月07日

音の鍵

過ぎ去った日々の写真を見ると胸がザワザワするのは何でだろう。
この風景は変わらず今もあるのに、写真の中の人はもういなかったり、
きっともう一生逢う事はなかったりするから
私は記憶の中のその人を探します。
頭の中の普段は触れない場所に小さな虫が入り込んで、
痒くてたまらないから、
その虫を探すように、
私は形のない欠片の姿を探している。
そんな日々が最近続いているのはきっと雨音のせいだと思います。
ノスタルジアが遠慮なしに襲って来て、夜中に急に目がさめて
もの悲しさに心が染まってしまう。
それは大抵が知らないうちに雨が降っている夜なのです。
私だけがそうなのかは分かりませんが、
雨音は何か心に作用するそんな力があるような気がします。

音というのは不思議で、瞬間に消えてしまうのだけど、
昔良く聴いていた曲が流れてくるとその時の何気ない光景が脳裏に映し出されます。
それは昔住んでいたアパートでチャーハンを食べている光景だったり、
昔よく遊んだ友達の笑い顔だったり、
大嫌いだけど、それでも好きだった人だったり。
音が小さな箱の鍵をカチャと開けて
僅かに空いた隙間から光が一直線に飛び出してきて
パラパラとその頃の映像を映し出します。

今私がこうしている時の音も、
今この瞬間の光景に仲良くひっついて
せっせと箱に閉じ込めて記憶と混じりあっています。


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2012年06月25日

最近の事

最近といってももう1ヶ月前の事ですが、
「ル・アーブルの靴磨き」を見ました。
大好きなアキ・カウリスマキ監督はいつも優しさと愛で包んでくれる。
だから私もその優しさに心をひたひたにつけ込みたくて映画館に心弾ませながら行きました。
行ったのは映画館だけど、私の心は既にフランスのル・アーブルに住んでいて、靴磨きの主人公マルセルに靴を磨いてもらい、暇さえあればマルセルがいつも行くお店に私もふらりと出向き、一緒にワインを呑み、そしてマルセルの手助けをするんだ。
映画の物語が進むと同時に私の妄想も進み、仮想を通り越して映画館の中にル・アーブルの海の匂いが漂ってくるくらいその世界にとっぷりとつかりました。
その世界に入りながら、時が止まって欲しい、映画が終わって欲しくないよと願っても必ず終わりがきてスクリーンが暗くなり、館内が明るくなった時はなんだかとても寂しくて、嫌だよ、ここから動きたくないよってそんな風に久しぶりに思った映画でした。
今でもたまにあの時感じた海の匂いを思い出し、何度も何度も映画のシーンを思い出し、少ない台詞は本当の言葉となって胸に留まり、町も人も小物も色も全てが愛しくて、宝物がつまったような映画。
映画は終わったけど私の中で恋は始まりました。
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2012年06月15日

アイスカップの鳥

夏休みの工作の宿題で私はアイスカップに紙で作った鳥の頭とシッポをつけた鳥のお船を作りました。
これをお風呂に浮かべて遊ぶんだとワクワクしていたのを今でも覚えています。
同じクラスの深雪ちゃんはヤクルトの入れ物で人形を作りました。
小学一年の夏休みも終わり2学期初日の出来事です。
担任の先生が「工作は後ろのロッカーに置いて下さい。」と言ったので私はロッカーの上に置きました。
そしたら後から来た深雪ちゃんが私の鳥のカップにヤクルトの人形を入れました。
本当はちょっと嫌だったのだけど、深雪ちゃんが笑ったから私も笑いました。
そしてお昼休みの前に先生が「工作を展示教室に飾るのでみんな持って行って下さい」と言ったので私はロッカーに走りアイスカップの鳥を取った時に中に入っていた深雪ちゃんの人形を落として割ってしまいました。
後ろにいた深雪ちゃんはとても怖い顔をして「酷い!どうしてくれるの!」と怒りました。
私は「ごめんね」とあやまり、そして直ぐに自分のアイスカップの鳥を手でぐしゃぐしゃに潰してゴミ箱に捨てました。
その私の行動を見た深雪ちゃんはニコッと笑い許してくれました。
私と深雪ちゃんは「どうして夏休みの宿題をしなかったのか」と先生に怒られたけど、でも深雪ちゃんはニコニコとしていたので私はホッとしました。

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多分私は人形を壊しておきながら自分だけ宿題をちゃんとやってきたというのは悪いと思い、こうする事しか思い浮かばなかったこの頃できる精一杯の誠意と謝罪だったのだと思う。
この一件を今でもたまに思い出し、遠い昔の自分の事なのに何故だかとても切なくなります。






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2012年05月21日

ホームページに作品を追加しました。

セツに通い初めの頃、周りには素敵な絵を描く人が沢山いて、いつも「いいな〜、私もいつの日かあんな絵が描けるようになれるのかな?」と嘆いていました。
毎日絵の事ばかり考え、素敵だと思う人の絵に似た絵を自分が描けるようになる夢を見たりもしました。
でも現実は「素敵」と思った絵と似た絵を描ける事はなく、当たり前の事だけど「私は私のもっている物しかもっていないんだ」と気付きました。
人格や見てきた物、今まで生きてきた環境、好きな音楽、好きな本、好きな世界観など全て違うから、どんなに真似しても出てしまう揺るぎない自分。
真似をしようと思うのは最初のとっかかりで、描いているうちにどんどん別物になってしまう。
私はなんて不器用なのかしら!と思いながらもその違いを笑いながら楽しんでいたりもしました。
好きな物に近づこうと思えば思う程どんどん遠ざかり、そのかわり自分に近づいて行く。
きっと器用な人なら「素敵」と感じた絵を描く事ができるのだろうと思うのだけど、でもきっとそれは通過点で遠回りしながら自分に近づいて行くのだと感じました。


そう思うとセツにいた頃の絵は今の私には描けない絵でそれはそれでとても愛しくもあります。
そして今描いた絵も未来の私には描けない絵だったらいいなと思います。


ホームページに作品落書きを追加しました。
お暇な時にでも覗いて頂けたら嬉しいです。
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posted by kyoko at 16:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

象のシワでは萌えません

吉祥寺バウスシアターで「淫力魔人イギー・ポップ&ザ・ストゥージズ」を見ました。
全編ライブのこの映画。イギーポップ64歳。身体はかなり鍛えているし、年齢なんて全く感じさせられずとにかく圧倒されたのだけど、イギーのシワとキズだらけの身体をみていたら、私の脳の記憶のスイッチが入り、いつか会った女の人が私の頭の中に何度も何度も映し出されてきました。
記憶の奥の方から滲み出た女の人。
中央線であったあの女の人。
電車の座席に座っている30代位の女の人の前に立った私は女の人の胸元に釘付けになりました。
実際には目が釘付けになるのは一瞬だけで、私の心が胸元に置き去りになりました。
電車から降りてからもずっと感動に近い感覚を抱え忘れられずにいました。
女の人は胸元が開いた服を着ていました。
その胸元にはかなり深いキズ跡が。
怪我をしたのか、手術の跡なのか、白い皮膚に縫い跡がくっきりと残っていたその胸元はとても美しくてうっとりと見とれてしまったのです。
女海賊エメラルダスにも顔にキズがあります。
女の人のキズを見たのはエメラルダスと母親の帝王切開の傷跡以来で、エメラルダスのキズも母親のお腹のキズも子供心にカッコいいと思っていました。

もし私にも同じように身体の何処かにキズがあったなら、多分こうやってキズを出す事はなく生きて行くでしょう。
あえて胸元のキズを出すという事、それは自分が生きてきた証を包み隠さずさらけ出す事のような気がします。
あの女性にもキズにコンプレックスを感じる日々もあったかもしれない。
だけどコンプレックスを潔く堂々と出し、そして出し続けていたらそれはファッションとなるという事を知りました。
誰にも真似出来ない心のファション。
私の好きな映画「ひなぎく」で女の子が「私はがに股。でもそれが個性」と歌うシーンがあります。
私はこのシーンが大好きで、この詩も大好きです。


イギーのライブを見ながら分かった事。
私はシワとかキズを見ると萌えるんだ。
イギーのシワとキズだらけの身体も、あの女性の胸元も、お婆さんのシワシワの胸元も本当に美しいと思う。
若い頃のツルツルしている皮膚よりも美しいと思う。
世の中の価値観とかそんなもの覆す、なんだか心がザワザワする美しさです。

posted by kyoko at 02:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月30日

パブロフの春

本当にあの砂壁が嫌でした。
所々にピカピカするのが入っているあの砂壁。
広さの割には家賃が安いからといって住み始めたあのボロアパート。
今のマンションに住む前に6年も住んでいて、地震で倒壊する恐れがあるから取り壊されたボロアパート。
あんな部屋でさえいざ引っ越しとなると、大嫌いだった砂壁ともうお別れと思うとちょっと寂しくもなりました。
最後部屋を出る時は一緒に住んでいた幽霊らしき何者かと砂壁にさよならとお礼を言い出て行きました。
次の引っ越し先はあのボロアパートに比べればとても綺麗な所なのに、何で名残惜しいのだろう。


それはまるで卒業のあの時の感覚にも似ているなとも思いました。
もう、本当にこの学生生活にも飽き飽きしていて、楽しい事なんかあまりなかったし勉強も嫌いだったから本当に早く卒業したかった。
早く自由になりたかった。そして未知の新しい世界に早く行きたかった。
でもなんでだろう、もう飽き飽きしていたあの通学路も校舎も学生生活もいざもう行かなくてすむかと思うと寂しさがジワリジワリと湧いてきて、愛おしくも思えてきます。
突然に今までの日常に終止符をうち、そして寂しさの次に襲ってくるのは新しい環境への不安と期待と得体のしれないドキドキ。
そのドキドキはいつのまにか日常に溶けこみ消え失せてしまうけど、何十年たった今でも春が近づく度に蘇ってきます。
今の私の環境は何一つ変わらないのだけどうっすらと蘇ります。
それは私の細胞に埋め込まれているかのよです。
鶯の鳴き声、梅の匂い、春まじりの風、それらが私の五感の隅々まで刺激して春のスイッチが入ります。
すると得体のしれないドキドキが襲ってくるのです。
それはまるでパブロフの犬のように、後天的に積み重なれた強烈な感覚。
そしてこの宙に浮いた行き場のないドキドキを抱えた心は春を彷徨います。
これを思うと、春に気狂いの人が出現するのも何だか分かるような気がします。
春に間違えて押された気狂いスイッチ。
それは誰もがそうなる可能性がある日本人の性なのかもしれません。


posted by kyoko at 14:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月10日

押しつけ絆

今、義父母は福島の仮設住宅で生活をしています。
同じ仮設に可愛い小さな子供がいたので義父母はお菓子などをあげていたら、
ある日その子供の両親とお祖母さんが義父母の部屋に上がり込んで来て「お金を貸してほしい」と言ってきて、なかなか帰らないのでお金はきっと返ってこないだろうと思ったけど貸したそうです。
それから義父母はその家族を避けるようになり、その家族は義父母が外から帰ってくる度に駐車場まで子供をつれて出てくるようになったそうです。
確かに色んな所から集まってきた集合住宅、殆どが良い人で皆が皆そうではないけどこんな事も本当にあるんだとびっくりしました。


「テレビの中では絆、絆というけど現実は違う。ここ仮設にいても周りと付き合いは殆どない」
「子供と奥さんは遠くに住んでいて金銭的にもきついし戻って来て欲しいけど子供の事を思うとそうは言えない。離婚した人もいるし絆なんてテレビの中で盛り上がっているだけだ」
「息子さんを亡くした知人にはもう前のように子供の話ができなくなり、今まで仲良かったけど疎遠になってしまった。同じ被災地でも同じ境遇とは限らない。」
等と先日テレビのニュースで福島の仮設住宅にすんでいる人の声が取り上げられていました。

これを聞いて私は何も分かっていなかったと思い知りました。
この偽善臭い「絆」という言葉をそう容易く使うのは間違いなのかしらとも思いました。
私が思うテレビの中で言う「絆」とは「早く復興して欲しい気持ち。」「ボランティアでも寄付でも出来る事は何かしようという行動」を「絆」と言うのだと思ったけど捉え方が違いました。
これは私達側が思う絆でその考えは生温かったのです。


でも正直「絆」って良く分かりませんので意味を辞書で調べてみたら
「人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。」
とあります。
確かに同じ境遇だと親近感がわき強いつながりを感じます。
でも私が相手につながりを感じていても相手がそうは思っていなかったらそれは絆でもないし、
人の心は変わるから、いくら何十年も強い絆で結ばれていると思っていてもほんのちょっとの誤解で簡単に絆は壊れます。
信用出来て初めて絆は生まれるもの。
よく誰かに「私はあなたを信用しているよ」と言うけど、それを口に出したとたん信用した人のエゴになると私は思っています。
「信用している」と言った瞬間、言われた方はその言葉に縛られて生きて行かなければならないから。
本当に信用しているとは、信用している相手に裏切られてもそれでも許す事ができて初めて「信用している」と言え、そこから絆が生まれるのではないかしら。



昔ある男の人から「君とは友達でいたい」と言われた事があります。
若かった私は
「友達って友達になりましょうと言ってなるのではなくて、気がついたら友達になっているものでしょう。
あなたが「友達でいよう」と言った瞬間それはもう友達にもなれないという事だよ。」
と答えた事があります。
「友達でいよう」というのは本当にずるい言葉です。
テレビで言う「絆」もこの「友達でいよう」という言葉と同じ匂いがします。
この「絆」という言葉で悲しむ人もいるという事。
友達にはなれっこないと分かっているのに「友達でいましょう」と言う。
お互い求めている物が違えば絆なんてうまれないし友達にもなれません。


絆とは相手との物理的な距離ではない。
その認識が違うと「絆」という言葉がただの偽善になってしまうのです。
絆も優しさもなんでも押し付けたらそれに苦しむ人がいると言う事を改めて実感しました。
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2012年03月04日

私はいつも変わりたいと思っている。

上京して初めて出来た友達と、初めて東京のクラブに行った時の事を今でも鮮明に覚えています。私は飲み物を頼むためカウンターの列に並んでいました。前には若い男性2人が並んでいて私はその2人の遣り取りに目が離せませんでした。
何故かと言うと、2人本当に仲良さそうに寄り添い手をつないでいたから。そして人目も気にせずさりげなくするっとキスをしていました。
タバコの煙が渦巻く怪しく薄暗い店内、ドンドンと心臓に響く音楽、それは映画の中に迷い込んだのではないかと思う程素敵な光景で私はドキドキしながらその2人の時間と瞬間を見ていました。
その仕草もしなやかでお洒落。ベレー帽に丸襟のチェックのシャツという出で立ちで、その時初めて「あ〜私、東京に来たんだ」と実感しました。

あれから20数年、先月私は誕生日を迎え、「教師生活25年」というお決まりの台詞のど根性がえるの町田先生の年に徐々に近づいていると思うと軽い目眩と焦燥感に襲われ、心はバタッとつんのめった気分でした。
何をそんなに焦っているのだろうかと考えました。
私は常に変わりたいと思います
その変わりたいという漠然とした思いで上京しました。
果たして上京して私は何か変わったのでしょうか?
あの頃一緒に遊んで、私とさほど変わりない生活していた友達もどんどん変わっています。
環境が変われば考えも少しずつ変わっていくようです。
一番の原因は家庭をもち、子供をもつという事です。

結婚はしたけど子供はいない私は相も変わらず、本当に相も変わらずで、
でも上京したあの日から変わった事は「絵」を描いている事です。
上京して10数年目でやっと念願の絵の学校セツに通いました。
そして絵を描き始めて今年で10年が絶ちます。
その意味では私の環境は大きく変わりました。
いつも変わりたいと思っているその気持ちは変わりませんが、その思いは漠然としたものではなくて、どうにかして絵で変わりたいと思っている私がいます。

外に出てもいつも何かアイディアを求めています。
何かネタとなるドキドキする瞬間を探しています。
それは初めて行ったクラブのあの二人の男性のキスを見た時のドキドキを自分の絵で感じたいと思うからです。

時がただただ無駄に過ぎているのではない、私の漠然とした変わりたいという気持ちは今はどうして変わりたいと思うか、理由がはっきりと胸にあります。
それは私の幸せな変化でもあります。

この先どうなるかは全く分かりません。
あの頃と変わらないのは目の前はいつももやもやの霧で、ただただ今だけをもがいているのは変わりません。
それでもこれから10年後何か変わっているか、10年後の私を見るのが恐ろしくもあり楽しみでもあります。


posted by kyoko at 02:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月28日

ホームページに絵を追加しました。

ホームページに絵を数点ですが追加しました。
覗いて頂けたら嬉ししです。
http://www.geocities.jp/kyokohirota69/portfolio.html

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2012年02月05日

鬼の夢

血の色した池の周りでは鬼達が頭を抱え「痛い痛い」とうめき声を発してる場面をたまに思い出します。
その場面は時には私の夢となって登場したり、時には白昼に突然に私の脳裏に映し出されたりします。
それは「こんな夢を見た」で始まる黒澤明監督の映画「夢」の中の一つの物語。
黒澤監督が見た夢を映画化した晩年の作品だったの思います。
この映画は十年以上前にテレビで見たのですが、この場面は物凄い勢いで私の中に入って来て居座り、その記憶はことあるごとに表面に滲み出てきます。
それで気になってもう一度見てみようと先日DVDを借りて見ました。
8話のオムニバスになっているこの映画は第1話からとても異様な世界観でした。
1話の狐の嫁入りの行進を見てしまった少年の話から始まり、
最後の8話ではある村では人が死ぬとお祭りのように楽しみ管楽器を演奏しながら村人が楽しそうに奇妙な踊りを踊りながら行進します。
この第1話の狐の嫁入りの行進と、最後の死者を送り出す行進がつながっているように思います。
特に今だからこそ印象的だったのは第6話の「赤富士」です。
赤く燃える富士山、そこでは何かが爆発しています。6基の原発が爆発しているのです。
子連れの女性が「原発は安全だ。絶対に安全だと言ったじゃないか」と叫ぶ。
逃げる沢山の人々。被爆した人は海に飛び込み皆死んでしまう。
これを当時見た人は何を思っただろう?
チェルノブイリの事故の後の作品です。何をバカの事を言っているんだと日本だけは安全と信じていたのでしょうか?

そして私が何度も思い出す第7話の「鬼哭」
悪行ばかりした人間は鬼になってしまうという物語。
周りには放射能で巨大化したタンポポ。
鬼になった人間は角の生えた頭をかかえ「痛い痛い」とうめいている。
まるで地獄絵のような場面。


物語全般は自然破壊に対する警告と人間の悪行を訴えています。
夢だからとてもシュールでとても異様で全8話全てが面白いです。
中学生の時「羅生門」を見た時も何だかとても衝撃を受けた記憶があります。
それと同じく私にとってはとても衝撃的な作品です。
こういったテーマの作品は沢山ありますが、この世界観はダントツで大好きです。

私は思うのです、
こういった商業的ではない映画は上映された当時はそれほどでも、
数年後になってジワジワとその重要性に気付かされるのではないかしらと。
posted by kyoko at 04:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする