2017年01月23日

襲ってくるのは昔のスケッチブック

こうやってうだうだしているうちに1月も終わってしまいます。
去年の年の瀬に「今年も何にもしなかった。何やっているのだろう」と落ち込んだのもつかの間、1月に入りまだ何もやっていない。そう、これが私なんだよ…なんて開き直っているからタチが悪いのです。

年があけてやっと重い腰をあげ少しずつ部屋の片付けをしています。
夜中にゴゾゴゾといらないものをゴミ袋につめる作業、ただそれけなのになかなか進みません。
片付けで一番手こずるのは紙類です。
昔の写真、展示のDM、絵を描くためにプリントアウトした写真やスケッチブック、役所の書類などこれらを分類するだけの作業なのにすぐに手が止まってしまいます。
そしてちょっと油断をしていると、紙は私を襲ってくるのです。
写真や手紙からはノスタルジーがズンズンと襲ってきます。
そのノスタルジーってやつは容赦なく私を孤独の沼の奥深くに連れて行きます。
真っ暗闇のなかで「寂しいよー」と叫んでも声は孤独の沼に吸い込まれて、当たり前だけど写真に写る人は誰も気づかない。
一体何が寂しいのか、変わってしまった自分か、全く変わらない自分か、写真の中にしかいない人のことなのか。

そして何より一番手ごわいのはスケッチブック。
クロッキーや、下書き、アイディアスケッチがつまったスケッチブック。
このスケッチブックが束になりずんずんと私を襲ってくるのです。
すごく下手くそな絵だけど、ただただ無我夢中に何かつかもうとした息遣いが詰まっているスケッチブック。
もう何年も見ていないスケッチブックなのだけど、「あっ、このアイディアスケッチすごくいい!なんで絵にしなかったのだろう」と、このアイディアスケッチを昇華させようなんて思ったりしていると、
このスケッチブックの中に潜んでいる過去の私が「お前、何やってるんだよ!」と怒ってくるのです。
私はこのスケッチブックにやられっぱなしで、夜中にものすごく気持ち悪くなるのです。

私が怖いのは孤独なんかより、過去の私なのかもしれない。それは今の私がダメダメだから、昔ほど無我夢中ではないからです。
スケッチブックよ、ごめんね。来年はあなたに怒られないようにするからとそっと撫でました。


ということで、遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
まだもう少し頑張っていこうと思います。

今年の年賀状の絵です。
2017nenga.jpg




posted by kyoko at 02:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

阿佐ヶ谷の孤独の宇宙

昔阿佐ヶ谷に一人暮らしをしていた頃。
ある日その阿佐ヶ谷のアパートの扉を開いて、足を一歩踏み入れると暗くて冷たい床にストンと吸い込まれてしまいそうな気がしたから、トンッとジャンプしてベットまで潜り込んだ。
そうしないともう戻ってこれなそうだから、そこはきっと深くて冷たい底の底だから。
それからというもの家に帰り扉をあけてすぐにベットにジャンプして潜り込む日々だった。

ある夜、私は芋虫のように丸まってベットで寝ていたら、ベットの中に何かが横たわっていることに気づいたんだ。
いつからいたのかさっぱりわからないけど、それから毎日真っ暗で冷たい何かがずっとベットの中にいて、私にひっつくように横たわっているんだよ。

アパートの外に出るとどこに行ってもグレーの霧が私につきまとっていて、目の前はいつでもモヤモヤしていて、息の仕方がわからなくなってしまうほどで、苦しくて苦しくて仕方ないからずっとベットの中に芋虫のように丸まっていた。
喋る人なんてだれもいない、ベットの中だけが私の居場所で、いつのまにか真っ暗の冷たい何かが私の唯一の友達になっていて、私は毎晩抱きしめて寝るようになったんだ。
そうしているとなんだか溶けるような、私の体が真っ暗に混じっていくような感覚になって、その感覚がドキドキするほど気持ちよかったんだよ。

もうね、私はその真っ暗の冷たい何かが隣にいるのが心地よくて、最初の怖さが嘘みたいに心地よくてずっとずっと抱きしめていたかったんだよ。

そんな日々がずっと続いていたのだけど、そんな毎日に飽きてきたのか、その日私はジャンプしないでゆっくりと床に足を落としてみたくなったんだ。
そーっと足を落としてみると、スーっと冷たい風が足の裏をくすぐる。
そしてまるでブラックホールのようんに、するすると私の体は床のずっと奥に吸い込まれていったんだ。

どこまで吸い込まれるのだろう、ちょっと怖かったのだけど、それよりもふっと体に触れる冷たい風が、吸い込まれる感覚がとても気持ちよくて、今でもたまにあの感覚を思い出すけど、そのたびにとうっとりとしてしまうの。
それは多分底なしで、宇宙に近づいているような、いえ宇宙だったのかもしれないと今は思うんだ。

あのアパートから引っ越して、もうあの底なしの真っ黒に溺れることはなくなったけど、たまにあの感覚が懐かしくもなるんだ。
阿佐ヶ谷のアパートの真っ暗で冷たいあいつと、
そしてあの底なしの真っ暗の床に、宇宙と繋がっている床に身を任せたくなるんだよ。
永遠に帰ってこれなくてもいいくらい、心がとけるくらい心地よかったんだよ。
posted by kyoko at 05:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

紫陽花の中に、だんだん見えてきた。

本当にご無沙汰してます。
こんなにも何も書かないから、もう誰も見ていないことだし、思いっきり好きな事が書けます。

あっという間に今年もやってきました。
梅雨の前の一番好きな季節でもあり、ある年を境にいろんな感情が湧きでて渦巻く季節にもなりました。

紫陽花が好きな母は6月1日が誕生日で、だけどもよっぽど年を取りたくなかったのか、13年前の5月31日にもう歳をとらないって決めました。
母がそう決めたのだから、いや、そうせざるえなかったのかもしれないけど、どちらにしろ私は何も言えないし、何もできない。
それは母の人生でもあるから、だけど思うのは、あれから何度も何度も思うのは「母は悔いのない人生を送れたのか」ということ。

それは私自身に常に向けられていて、「いやまって、私こそ後悔だらけの人生だよ。」と
でもきっと死ぬ前は、すべての出来事に自分を納得させるために、たとえ後悔だらけの人生だったとしても
「あゝ、楽しい人生だったよ」と、そう思うに決まっている。

私という人格だから故のすべての行動も、今あるこの現状も丸ごと全部受け入れて、愛おしくなるほど受け入れて、そうやって死んでいくのだろうな。
母もきっとそう思ったと思う。

思えば母の人生は壮絶だった。私から見ればだけど、かなりの楽天家ではないとやっていけないだろうな。
私は、そんな母を見て学んで今の私が形成されている。かなりの部分はそれが占められているのが分かる。
この事は、またいつか忘れないように書きたいと思います。
なんだろう、良くも悪くもだんだん見えてくる、自分の中が。
それは楽しいことでもあるけど、苦しいことでもあります。
でもきっと、それを知ることが母を知る事でもあるような気がします。



posted by kyoko at 22:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月12日

今年もよろしくお願いします。と去年みた映画のことです

このブログを初めて10年位はたつと思います。
最近は本当にたまにだけど、「ブログもっと更新して」と言われて嬉しいやら恥ずかしいやらですが、そう言ってもらえることがとても嬉しいですし、励みになります。
書いている時は「誰も見ていないし〜」と卑屈になってますが。
書きたい事は頭の中をグルグルしているのだけど、なかなかまとまらなくて。
でも少しずつ出して行きたいと思いますので今年もどうぞよろしくお願いします。


そして、今更ですが昨年観た映画で心にのこっているのを書き留めておきたいと思います。

マットマックス 怒りのデス・ロード
神々のたそがれ
ザ・トライブ
さよなら、人類
グリーンインフェルノ
ヒューマンハイウェイ


マッドマックスは前作からのファンで、1と2までのメルギブソンのかっこよさに鼻血が噴出してました。
一番すきなのはマッドマックス2で、それに出ていたモヒカンと金髪のゲイのカップルもカッコいいのだけど、モヒカン男はお尻の部分を丸くりぬいた革パンツをはいていて、いつもお尻プリプリしているし、もうエー!エー!の連続でした。
しかし、3あたりからメルさんが後ろ髪を伸ばしだしてからは「う〜ん」と目眩がしてしまったのですが。

それで今回のマッドマックス、内容は単純明快なんだけど、前作以上に狂っていてかっこ良くて、監督も前作と同じじジョージ・ミラーで、もう70過ぎているのに、それなのにこんな狂った映画つくってしまうなんて私はひれ伏すしかなかったのです。
こんな凄いのを観てしまったら、もう何を観てもつまらないと思う程です。


「神々のたそがれ」はとにかく訳分からないのだけど、凄い映画をみてしまった!と暫く興奮してしまいました。
映画を見ている人の事なんて一切考えていないと思えるほど訳分からないのです。
とにかく汚い、糞尿と湿気だらけで不快だし、この場面はいったい何をしているのか、何を意味するのかさっぱり理解できないのだけど、それでも強烈に心に刻まれる映画なのです。
けして誰にも勧められないのだけど、とにかく凄いので映画がもの凄く好きな人は観て損はないです。
注意しなくてはならないのはこの映画がもつパワーにやられてしまって見終わってぐったり疲れるので、睡眠は十分とってから観た方がよいです。
確か原作の小説があってそれが「神様はつらい」だったと思いますが、見終わって本当に神様はつらいな〜と、それと無知って本当に嫌だなと思わせる映画でした。


「ザ・トライブ」は全員ろうあ者が出てる台詞も字幕もない手話での映画なのだけど、こういう表現方法もあったのか!という衝撃がありました。
手話での喧嘩は動物のようで野性的だったり、神秘的だったりするのです。

これを観たら田原総一郎が監督した「あらかじめ失われた恋人たちよ」という映画を思い出しました。
これもろうあ者のカップルの話なのだけど、(出ているのはろうあ者ではない普通の俳優さん)、主人公の男は健常者なのだけど、このろうあ者のカップルが手話する姿を見て神秘的で官能的だと感じこの二人に魅せられるという話なのです。
私もカレー屋さんの隣に座ったカップルが手話をしていて、そ私には分からない秘密のやりとりがとても神秘的だったのを覚えています。


などと映画の事を一気に書きましたけど、映画は観て直に感想を書いた方がよいですね。





posted by kyoko at 03:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月25日

イボンヌ姫の反乱

大変ご無沙汰してます。ご無沙汰しすぎてもう今年も終わってしまいますね。
この忙しい年の瀬にそれでも私はお気楽に、のんきにかまえています。
たとえ大腸がん検診にひっかかって、大腸内視鏡の検査を受けなくてもならなくても。
心当たりはあるんです。その事は病院の先生にも言ったんです。私には20年来の友がいて、その友の事を私はイボンヌ姫と呼んでいるのだけど。。。そうお察しのとおりイボ痔です。
私と一番近い存在だけど、顔も見た事がない、一生見る事がないイボンヌ姫。

イボンヌ姫の存在を初めて知った20年前、それは最初はビックリしました。
肛門科の病院にいくと先生は、「このままでも大丈夫だけど、お嫁に行く前にとっておく〜?」と言うから、まだ夢や希望があった私はイボンヌ姫がいるとお嫁に行けないのかと思い、一度レーザーでとったんです。
お嫁に行く前に他人にお尻の穴をさらけ出すのもどうかとは思ったけど。
だけど数年したらまたぴょこんと生まれたイボンヌ姫。これはもう生きているとしか思えなくなり、共存する事にしたのです。

一緒に生きると決めたイボンヌ姫は普段はおとなしく洞窟の中にちょこんとひっそりと佇んでいるのだけど、徹夜した日や、お腹の調子が悪い時に顔をだすのです。
「ちょっと休んで下さい」と伝えるためにちょこんと顔を出してくれているようで、可愛い姫なんです。

それだけではなく、イボンヌ姫は私を救ってくれます。
会社勤めの頃、上司のパソコンのコンセントを誤って抜いてしまった時、どう償って良いかわからないので
「誰にも言えない秘密をおしえますので許して下さい。」といいイボンヌ姫の存在を話したら大笑いして許してくれました。

そして、もし友達が何かに悩んでいて笑う事もできない程落ち込んでいたら、私は迷わずこのイボンヌ姫を友達に見せようと思うんです。
きっとイボンヌ姫を見たらどんなに辛い事も吹き飛ぶ程笑えるのではないかって思うのです。

そんな怒った上司も、落ち込んだ友も笑顔にさせる力をもつイボンヌ姫。
あぁ、心優しいイボンヌ姫、きっと辛い事があったのでしょうね。
血の涙を流して訴えたのですよ。

私はそう信じてます。これはただのイボンヌ姫の反乱だって。


posted by kyoko at 00:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月29日

「ポスターを描く」無事終わりました。お越し頂きありがとうございました。

無事展示は終わりました。沢山の方に足を運んで頂き本当にありがとうございました。
展示をする度にいつも思います。わざわざ見に来て頂ける事が本当にありがたいなと。
私は展示してもあまり意味がないのではないかと、時々思ってしまうのです。
だけど、一緒に展示をしたイラストレーターの方やデザイナーの方もみなさん良い方ばかりでとても楽しくて、展示してよかったなと、終わってみると思うのです。

そして、久しぶりの友達と沢山お話しできたり、はじめての方とのお話も、この展示がなかったら存在しない会話で、それは瞬間に消えてしまう言葉だけど、家に帰ってふと気付くと思い出し笑いしたり、関心したりしてます。
私と色々お話していただきありがとうございました。

そして一緒に組んで私の変な絵を広い心で受け止めてくれたデザイナーの塚本さんにもとても感謝しております。
この絵もポスターもとっても気に入っていてもし個展をする事があったらまた展示したいと思います。

今回のこの哺乳瓶の容器のブランデー「デュカスタン ファザーズ・ボトル グラン・アルマニャック」のお題があったから生まれた絵です。

それがこのブランデーです。
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本当に素敵なポスターになりました。
IMG_0178.jpg

posted by kyoko at 01:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月16日

「ポスターを描くvol.6」に参加してます。

こんな誰も読まないようなブログに文章を垂れ流している暇があったら絵を描けと思っていたのだけど、絵を描いていた時の方がブログも更新していたし、こうして全く更新しない時は絵もあまり描かないものです。
週に3枚も描いていたあの時はなんだったのだろうか?
もしかして自分には何かあるのかもしれないという思いが確かにあって、そして暫くして、やはり何もなかったんだという気持ちに支配され始めて、それでも駄作だらけだけど描いて行こうと何度も思う、その繰り返しなのよ。
この文章だって、絵だって私の身体を通して出て来た排泄物だし、でも私はそんな自分の排泄物を溜めて溜めて、蓋をしても漏れてしまう臭い匂いを誰かに嗅がせたいって思っている事は確かなのかも。


それで、告知がおそくなりましたが、
ギャラリーダズル「ポスターを描くvol.6」に参加してます。
10/13火〜10/25日12:00〜19:00 最終日17:00まで10/19日月休廊 
http://goo.gl/JZ0K7Y
毎年恒例の展示で、イラストレターとデザイナーさんが組んでポスターを制作したのを展示します。
私はフランスのブランデーのポスターを描きました。そのブランデーのボトルが哺乳瓶の形をしています。
別名「大人のミルク」というそうで、そのボトルを見たらオッパイを描きたくなって、オッパイを沢山描きました。
一緒に組んだデザイナーさんからは「自由にのびのびと好きに描いていいよ」と言って頂きました。
バカな絵だな〜と笑いながら描きました。そしてそんな絵をデザイナーさんが素敵に仕上げて頂きました。
出来上がった絵は自分でもとても気に入っていて、さらにデザイナーさんがとてもお洒落でありながら怪しくデザインしてくれてとっても気に入っています。

他の方のポスターも皆素敵で、印刷方法に凝っていたり、いろんな仕掛けがあったりととても見応えがあります。

もしお近くに来た際には覗いて頂けたらとても嬉しいです。
posted by kyoko at 23:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月19日

何度も同じ悲しみは嫌なのよ。

夕べ見た夢は母親と買い物に行ってとても楽しかったのに、その夜に母親が死んだと連絡が入る夢。
私はもの凄く悲しくて泣きながら目覚めたのだけど、窓から入る朝日が鋭く現実の矢となり突き刺してくれて、「あっそうだ。母親はもうとっくの昔に死んだんだ」と気付き、それでも夢の中で体験した悲しみは現実に一度体験しているから悲しみがリアルで、目覚めて暫く心の悲愴はどっしりと残っていて憂鬱になるわけです。
もう2度と同じ悲しみの体験は繰り返したくない、同じ夢は見たくはないわ。
今後これ以上の悲しみはあるのかしら?
などと思っていたらもうすぐ母親の命日なのです。
でもそうして思ったのです。
私が今迄生きてきて沢山の人と出逢ったけど、多分もう一生逢わない人の方が遥かに多いのです。
その逢わない人はこの地球上でちゃんと生きているとしても。
逢わないという事は同じで、違いは生きているが死んでいるかという事だけ。
その違いだけなのだから、人の死って私が死ぬ迄のしばしの別れなんだよね。

母は広い世界を見たかったから、念願だった放浪の旅にでて、たまに手紙でも書いてくれればよいのにそんな事も忘れるくらいきっとその旅は楽しいのでしょう。
私もいつの日か旅にでたいのだけど、まだまだ暫くはその準備ができそうになくて、
でもその旅は本当に一番の楽しみなんだ。
あの時私は、きっと直には逢えないだろうなと思っていたからそれほど驚きはしないよ。
posted by kyoko at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

価値観から自由になるために

昔々お付き合いをしていた男性が私が持っているレコードを見て「このレコード全部捨てろよ。ダサいから」と言われて私が大好きなミュージシャンをバカにされたのも悲しいけど、そんな事とやかく言われる筋合いはないと相当頭にきて「あなたとは価値観が違い過ぎるからやっていけないわ!」と言ったら「価値観なんて違うのに決まっている事だ。早く捨てろよ。」と今思い出しても胸くそ悪い事言われ、私は泣きながら友達にレコードを一時保管してくれないかと電話した。
価値観が違うのは分かっているけど、その価値観が不快に思うのなら付き合って行く事は無理なんだ。
でもその男は付き合い始め私の持っているレコードを見て「いい趣味しているね。」と言ったのだけど、あの言葉は嘘だったのか。。。。

なんでこんな事を思い出したかというと、
私は私の事を好きな人が好きだし、私と性格が似ている人が(全くではなくて、思考の方向性が)好きだし、好きな映画や好きな音楽が似ている人が好きで、友達になりたいなと思う人はそういう人がいいとずっと思っていて、今でもそれは変わらない。
そして私にとって一番大切な事は「自由」で、自由な音楽、自由な絵に出逢うと涙がでるほど感動して抱きしめたくなり、私ももっともっと自由に何も恐れずに自由になろうと思う。
全てから解放されて自由になりたいと思う。若い頃は自由とは、好きな時に起きて、好きな時に旅行に行き、好きなときに出かけてなんの束縛もなく帰りたくなったら家に帰るというのが自由だと思っていて、でもその自由は違うと気づき、どんなに時間的に自由がなく束縛されていても心の中はいつだって自由で、何を妄想しようと、どんな考えだろうと、どんな絵を描こうとその自由さえ保たれれば多少の不自由でもやっていけると思うようになった。

でももし私のように自由が一番大切で、同じような価値観の人ばかりだったら世界はどうなるのだろう。
もの凄くつまらない世界になるのではないかしら?発展もしないのではないかしら?個性という言葉さえもなくなるのではないかしらと思うとちょっと怖くなってきた。
そう思うと価値観は人それぞれ違う方が良いし、違っていても好きだったら理解はできなくても尊重する事ができれば友達にもなれるしその方が楽しめる。
そして尊重してもらう為には、私が価値を見いだしたものを全く興味ない人に好きになってもらえなくても、それがなんで素晴らしいかという事を相手に分かってもらえる術が必要で、
それは自由になるためにとても大切な事なのではないかしらと思うのです。
そして私が逆の立場になっても価値観の違う人の言葉を聞き入れるスペースも作り、自分との差を確認はするけど、価値観の違いは悪ではないと思うようにする事が本当の自由なのではと考えていたらあのバカ男の言葉を思い出したという事です。




posted by kyoko at 01:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月27日

最近の事、インドの仏さんにやられたよ。

今年の魚座の前半は「なれない仕事などで忙しくなる」とあって、何だろう!と思っていたら確かに年末から今月中旬くらいまでなれない仕事がやってきた。
もうそれは締め切りまでに自分に出来るのだろうかと気がかりで、色んな予定も立てられずずっと家に籠りMacの前にいる日々で、本当ならそんな時でも少しでも絵を描く時間を作った方がよいのだけど、一つの事に集中すると他の事が手につかない性格のようで、こんなのだったら会社勤めの方が時間の管理ができてよいのではと思ったり。
本当は今の状況がとてもよいのに無い物ねだりをしてしまうのは悪い癖ね。
直に「環境が違えば、悪い性質も変わるかも」なんてそんな事あるわけないのに。
そんなこんなでやっと仕事が片付いた開放感で今度は外に出たくなって、あまり興味もないのに「インドの仏」見に行ったら、それが思った以上に面白くて仏像より仏教の教えの方が面白くて帰りに本屋で仏教本を読みあさり、よくわからないけど、ブッタ凄い!って感動したり。
なんでもこの世は移り変わるもので、一瞬たりと同じというのはなくて、それが宇宙の法則だから人が何かに執着するのは宇宙の法則に反する事なんだって。
そしてどんな事でも永遠はないんだってよ。だから悪い事も良い事も永遠はないのね。
数年前私は永遠は一瞬の中にあるのではと気付いたのだけど、違ったみたいだわ。
でも私にとっての永遠と幸せは一瞬の中にある事なの。
みうらじゅんさんが「仏教がはやればよいのに」と言っていたけど私もそう思うよ。

そうこうしてたら義父が病気で倒れ救急車で運ばれ入院となってしまって、とても心配なのだけど、にわか仏教の私は、世の中なるようにしかならないのよ!とそれが宇宙の法則とでーんと構えている事ができそうです。
なんだか凄く流れて的にタイミングよく仏教にはまった。これも偶然ではなく必然なのかしら。仏さんありがとう。

などと少し落ち着いて来たので明日から又絵を描く時間をちゃんととって行こうと思います。


posted by kyoko at 01:32| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月10日

本屋に行くとちょっと落ち込むんだ。

落ち込むと言っても毎度の事だから落ち込む事にもなれて、それがいつもの状態になって麻痺してしまうのが悪い癖です。
自虐とか卑屈って何だか自己保身のような気がして嫌だけど、誰かに「そんな事ないよ」って言ってもらうために卑屈な事を言うのではなくて現実逃避しないため自分に卑屈な戯言を言っていこうと思います。

たまに大きな本屋さんに行っていろんな人の画集見たり、装画を見たりして「うわっ素敵!」って心踊らされるけど、店を出る頃にはこんな事思う。

「こんなにも沢山の絵があるのに、私の描いている絵はここのどこにもないのね。」

そうしていつも肩を落としトボトボと本屋を出るのです。

そんな時は個展なんかして沢山絵を描いてお友達や、たまたま縁があって訪れた人に絵を見てもらって褒めてもらって世に出た気になると少しは「自尊心」ってやつが保たれると思うのだけど、まず、個展するのには先立つ物が必要です。
でも果たしてそこまでする価値があるのか?って思ってしまうけど、確かに個展をすると無理矢理にでも同じテーマで沢山絵を描くからグ〜ンと画力アップしますから、きっと個展してそれだけの見返りがあったらやった方がよいのでしょうけど。
でも金銭的にも辛いのでこの際「妄想個展」でもしようと思います。
きりがよいので母の命日5月31日に搬入でオープンは6月1日〜父の命日の6月27日まで。
20点程の新作を私の心の中にある妄想画廊に展示します。
もう決めちゃったし、書いちゃったし頑張ろう。
本屋さんに置いてある絵の人は沢山仕事して沢山絵を描いているのに、私は沢山描いていないのです。
なので誰にも頼まれていなくても、勝手に描いて、
誰も見ていないこのブログの連載も頑張ろうと思います。

最近はお友達に素敵なボールペンセット50色プレゼントしてもらい、
友達にやった方がよいというアドバイスもあり、成る可く毎日インスタグラムに絵をアップしてます。
http://instagram.com/kyokohirota69




これで私のカレンダーは妄想締め切りだらけでとても忙しくなるでしょう。
本屋で落ち込んだかいがありました。



posted by kyoko at 17:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月30日

滅多に引かない私が引いた映画。

中学の頃、年に数回体育館で全校生徒で映画を見る行事があり一年生の頃は確か「幸福の黄色いハンカチ」だったと思う。
この映画を見て当時の私にはもの凄く腑に落ちない場面があった。
殺人の罪で刑務所に入っていた高倉健役のゆうさんが出所して
「もしまだ待っていてくれるのなら黄色いハンカチを竿の先に揚げてくれ」
と奥さんに手紙をだし、結果ハンカチは上がっているのだけど、私は「黄色ハンカチなんかそうそうないよ。薄黄色のタオルとか上がっているのかな?」と思ったら映画では真っ黄色のテロテロした旗みたいな布が何十枚も揚がっていた。
それにもの凄く不自然さを感じたのを今でも覚えている。
そんな事を思い出していたら、建さんが殺人を犯した理由をすっかり忘れていた事に気づき、気になったので先日テレビでこの映画を見てみた。
あの健さんの事だからのっぴきならない理由があったに違いないと私は確信していたのだけど。
そして映画を観て殺人の理由に愕然とした。
健さんは一目惚れしたバツイチの倍賞千恵子と結婚し、しばらくして奥さんは妊娠したが流産してしまう。
病院で先生から5年前にも奥さんが流産した事を聞かされた健さんは
「俺は隠し事をする女は嫌いだ」
と言い酒を飲み家を飛び出し、夜の街で肩が当たっただけという理由で男に暴行し殺してしまうのだ。
流産して一番傷つき弱っているのは奥さんなのに昔の事をチクチクと言い出し、殺人まで犯す。
「昔流産した事が俺はそれくらいショックなんだ」と言わんばかりに。

今迄私はどんなに酷い内容のでも映画の内容ではなかなか引かない。
そのなかなか引かない私がこの上なくどん引きしたのはこれだけではない。
出所した後、武田鉄矢がチンピラに絡まれるのだけどその時も殺人を犯した時と同じ方法でチンピラに暴行している。
確かその時の台詞が「あんたはそんな事くらいで怒るのか」とチンピラに言うのだ。
武田鉄矢が桃井かおりと喧嘩した時も
「女は弱いから守らなくてはいけない」と説教するのだ。
見終わってどの口が言うんだよ!と思わず叫んでしまった。

ダメダメ男がでる映画は結構好きだ。
それは本当に人間らしくて、憎めないたちのよいダメ男。
でもこの健さんはたちの悪いダメ男だ。
一見礼儀正しく、義理人情に厚く女性には優しそうだけど、昔の男尊女卑の考えが根強く残っていて、直ぐ頭に血が上り、強引で、ウジウジしていて、そのくせ人には説教する。
倍賞千恵子を好きになって何度かデートするようになったが冷たくされた時なんて家までこっそり行き倍賞千恵子が乗ったバスに走ってついて行くのだ。
思わず「気持ち悪い」と叫んでしまった。
そのくせ「俺は不器用だから」と言う。
本当に不器用な人間は自分で不器用だなんて言わないよ。


私の通っていた中学ではこの映画が名作だから見せたのだと思うが、この映画の何処が名作なのだろう。
ただ北海道の景色と桃井かおりはとってもよかった。
彼女がいたからとても救われた。

まだまだ言いたい事は沢山あるのだけど悪口だらけになってしまうのでこの辺でやめておきます。
名作という世間の言葉に惑わされてはいけない。
私はそういう事に惑わされずにちゃんと見極めて生きて行こうと思い知らされた感謝すべき作品です。
posted by kyoko at 15:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月19日

野性時代10月号で扉絵を描きました。

sensyoku.jpg

野性時代10月号加藤シゲアキさん読切の扉イラストを描きました。

最初読んだ時グイグイと引きつけられました。
絵を描いている人のお話なので興味深いというのもありますが、
自分と違うタイプの人と付き合う事で、その人に感化され少しずつ変わっていく感じが面白いです。
ある人と出会った事でこんなにも見る景色が変わるんだなという感覚、私も以前に味わった事があるような気がします。
同じ風景だけど、いままで行った事がない場所に迷い込んだような感覚を表現したいと思い描きました。

風景を描くのはとても好きなので今回このようなお仕事ができてとても嬉しいです。
posted by kyoko at 15:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月18日

グループ展にご来廊していただきありがとうございました。

遅くなりましたが先日のグループ展は無事終わりました。
沢山の方に来廊していただきありがとうございました。
今回は「Film noir 」 がテーマで私は大好きな映画「殺しの烙印」を描きたくて参加しました。
映画となるとその映画のファンの人もいるし、ファンの方が見に来て「ヘタクソ!出直してこい!」と言われるのではないかとヒヤヒヤしてました。
そしてそんな方はいなかったので一安心なのですが、とにかく情熱だけで描いてしまったので暑苦しい絵になってしまいました。私の場合全てが暑苦しい絵なのですが。。。。

私は以前、小林旭の映画を見た時、旭よりも宍戸錠の虜になりました。
錠の身のこなし、佇まい、ジョークやしゃべり方全てがちょっとした違和感があり錠から目が離せませんでした。
それから錠が出ている映画を見るようになりこの「殺しの烙印」にたどり着き、ぶっとんだ内容に衝撃をうけました。とにかく前衛的でかっこいいのですが、「どういう事?」と突っ込みたくなる映画なのです。
なのでこの映画の面白さ、素晴らしさを伝えたくて描いたのですが伝わったでしょうか?


そして一緒に展示した方もとても面白い人ばかりで、またどこかでご一緒できたらいいなと思います。

またいつか何か機会がありましたら展示をしたいと思います。
これに懲りず見に来て頂けたらとても嬉しいです。

ありがとうございました。

IMGP2659.JPG
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2014年09月07日

グループ展に参加します。

gallery DAZZLEにてグループ展に参加します。

「Film noir 」 イラストレーショングループ展
2014年09月09日(火)〜 2014年09月14日(日)
12:00〜19:00 (最終日17:00まで)
オープニングパーティー9日(火)18時〜
フィルム・ノワールをテーマにしたイラストレーション展。
「地下室のメロディ」「チャイナタウン」「殺しの烙印」
「インファイナル・アフェア」「穴」「深夜の告白」
「上海から来た女」「夜の人々」「三つ数えろ」他
米国製のみならず、フレンチ、香港、そして日本ノワールも。

私は「殺しの烙印」を描きました。
korosi.jpg

お近くに来た際にはお立ち寄り頂けたらとても嬉しいです。
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2014年08月11日

夏と忘却

突然いなくなった遠慮知らずで暑苦しい夏。
あまり好きではない夏。
一昨日から台風が接近しているらしくとても夏らしくない日々が続く。
最初は「このままずっといなくなればいいのに」なんて思っていたりしたけど、なぜだか秋がもうすぐやってくるのだと勝手に勘違いした心が寂しがる。
早朝のラジオから「グッド・バイ・マイ・ラブ」が流れてきたたら追い打ちでさらに寂しさが膨張して、脳内で悲しい物語を作り始め、半分寝ている状態でそれを見ているのがとても快楽で寝続けてしまい、目覚めたらもう日曜日の昼で、外の嵐で我に返り寂しさの後はもの凄い嫌悪感に教われる。
そして明日になればまた暑苦しいあいつが戻ってくるんだと思うとうんざりする。

そんな夏だって良い所は沢山あるよ。

洗濯物があっという間に乾く事。
暑さで早起きができる。
私の身体から汗となって毒が飛び散る事。(そして少しは清らかな人になれたらいいのだけど。)
蝉が地上で人生を謳歌出来る事。(もしかしたら蝉は暑い地上なんかに出てきたくなくて「嫌だよ」と泣いているかもしれないけど。)
そして夏が無ければ秋を寂しいなんて思わない事。(私は秋をなんだか寂しがりたいのです。もしかして夏がいなくなって寂しがっているのかもです)

夏はまだ暫く居座る筈。
うんざりもするのだけど、ちょっとだけ安心する。
もし夏がずっといなくなったら最初は寂しいけどいつかはそれに慣れるだろうか?

身近な人が亡くなった時、確かに数年はその人の事を思い度々泣いたりするけど、
もうそのうちそれが当たり前になってくる。
私の場合はお盆や年末などに実家に帰ると駅に母親が車で迎えに来てくれた。
母が亡くなった後に実家に帰ると駅では母の車を探してしまうけど、そこには父の車が待っていて「あ〜そうだ。母はもういないんだ」と気付く。
父が亡くなるとまた暫くは父の車を探してしまうけどそこには兄と姪や甥達が待ってくれていた。
そしてそれが当たり前になり父の車を探す事がなくなるように、一つの季節が無くなっても何十年もたつとその事なんて忘れて、時々年寄りの昔話に出てくるくらいになるのだろうか?

忘れてはいけない事も沢山あるけれど、
馬鹿みたいなくだらなく楽しい事で心を満たして馬鹿みたいに笑って死んでいきたい。
その為には忘れた方が楽な事を忘れるのはそんなに悪くないと思う。
悲しい事も、嫌いと思う事とか憎んでいる事は直に忘れてしまいたい。
忘れるという事は心になにかを埋めてくれる事。
楽しい事を埋められる隙間をつくってくれる事なんだ。


でもやっぱり夏がいなくなったら多分ずっと強烈に心に残っているだろうな。
そう思うと私は夏が好きなのではと思えてきた。





追伸。
なんだかまとまらない文章ですみません。
この前、毎日日記を書こうなんて大口をたたいたくせに3か坊主になってしまいすみません。
多分だれも読んでいないからすみませんといってもむなしいだけだけど。
この前「毎日チェックしてる」と言ってくれた人がいてなんだかとても嬉しかった。
でも多分毎日書く事は私には無理があるので申し訳ない気分でもあります。
書く事がないなと思っても、いざ書き始めるとなにかしら書く事が浮かんでくるので成る可くブログに向かうようにします。
絵も描く事ないと思っても手を動かすとなにかしら描く事が浮かんできます。
浮かばない時もあるけど、動かさなければ浮かばないので成る可く動かし、
なんにもしない時も絵とこのブログの事を考えて生きて行こうと思います。
見てくれてありがとうございます。



posted by kyoko at 02:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月05日

芋虫の未来

いつ迄続くか分からないけど、毎日日記と絵を書いてみようと思った。
日記は日々の出来事を残しておこうと思ったのだけど、日々はただいつもと同じように時間が流れるだけ。
毎日これといった事が起きる訳でもなく、それでもいつか心ときめく日がきて、それを書き留める日がくると思っている。

今日はトウモロコシを買ってきた。茹でようと思い皮を剥いていると芋虫が何匹がニョキニョキ出てきた。
私は小さな悲鳴をあげながら水で流したら芋虫は負けずにシンクにしがみついている。
必死にしがみついている芋虫を見ていたらこの芋虫にだっていつか心ときめく日がくると信じてこうやって力を振り絞りしがみついているのに、なのに私はそれを阻止する事なんてできないと思い、又小さな悲鳴をあげながらティッシュでそっと芋虫をつかみ、外に逃がした。
外は生存競争が厳しい。
鳥に食べられてしまうかもしれない。それでも人間の手で殺されるより、最後に見るのは卑しい私の顔よりも、このどんより曇り空の方がまだましだろう。
頑張って生き伸びてねと心の中でつぶやいた。

posted by kyoko at 23:34| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月04日

ここから先はリアル

今迄、絵を描いている友達で映画も観ない、小説も読まないという人に何人かあった事がある。
特に映画を観ないというのは、まさか全く観ない人がいるとは!と、ちょっとした衝撃だった。
理由はそれぞれちゃんとあって共通しているのは「本当ではないから」。
一人の子は「演技がダメで、演技していると分かるとさめるし見ていられない」
もう一人は「でもドキュメンタリー映画は好き」と言う。
この映画をみない人生を選んだ人は多分何本かは過去に映画を観たと思うが、その映画がもの凄くつまらなくて自分にあわなかったのだろうか?
私なんて人の創作物に溺れて生きてきた人生で、生きる事の一部ははそういう事と思っている。

ここ最近みた映画では「そこのみにて光輝く」が本当に素晴らしかった。
底辺で生きる人の映画で「うっ、、、お願いだから幸せになって」と強く願いながら観た。
映画は海岸の夕日のシーンで終わる。私にはそれが希望に思えた。

その映画館は地下にあるので見終わって階段を昇り地上に出た瞬間、現実の街の声、眩しい太陽の光が容赦なく入ってくるのだけど、心はまだその映画の中に浸っていいるので、ただ地上に上るのではなく底辺から少し地上に出れたような感じになる。
目の前には昔私がバイトしていたお店の曲がり角がある事に気付き、あの頃の過去の自分が鮮明に蘇ってくる。
それはまるで映画とつながっているようでもあり、私なりに生き方にもがいていた時期だからあの頃の言いようの無い心が蘇ってザワザワしてくる。

映画を見終わると、私の心の中ではそれは物語ではなくなってリアルになる。
映画を観るってそういう事って思う。
それは本当ではない物語だけど、見終わった瞬間の心の中は本当で、観る前には確実に無かったものなのです。
一つ映画を観ると一つ心に今迄無かった何かが生まれる。本当ではない事から本当の何かが。
その何かは形も色も人それぞれ違うけど、それはリアルだよという事を映画を観ない友達に伝えたいと思った。
posted by kyoko at 14:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

天国Twitter

記憶力が悪いのは今に始まった事ではない。
子供の頃から特に暗記というのは苦手だった。脳に欠陥があるのではと思う程、興味が無い事は全く覚えられない。
今はさらに酷くなり、人の顔や名前も、そしてこの前見た映画もドッと滝のように記憶が流れ落ちて行く。
そして思ったのは記憶が流れて行く先に池を作って記憶を貯めておく事はできないかしら?と。
その記憶の池をデジタル変換して記憶の池のコンピュータがあったらいいなと思う。
そのコンピューターに私が生まれてから死ぬ迄の記憶とか趣味や人格など全てインプットしておく。
そしていつでもアクセスして取り出す事ができる。嫌な記憶は速攻削除しておくことを忘れない。
そのコンピューターはいわば私自身。仮に私が死んでも私の人格をもったコンピュータは私が言いそうな事を言うし、昔の思い出を語ったりする。

死んでからの私のコンピュータは必要ないけれど、母親のコンピュータはあったらいいなと思う。
今でも時々母親と話したくなる。
特別マザコンというわけではない。むしろ親離れ、子離れしていた関係性だった。
上京して1年位は母からも電話はなければ私からも電話をかけたりもしなかった。
母親とは仲が悪いとか喧嘩しているという分けでもなかったけど、私にとってはそうしてくれる方がとても楽だった。
若い頃はそうやってあまり親と関係持たない事がなんだかカッコいいと思っていたのかもしれない。
そんな親不孝な事をして母親にはとても悪いなとずっと思っていた。
今更になって母親に聞きたい事や話したい事が沢山ある。

だからこの母親のコンピューターがあったらいいなと思う。
そのコンピュータで天国Twitterができるようになっていたら尚よい。
母からのつぶやきは「三途の川なう」とか「地獄ツアーなう」
閻魔さまとのツーショット写真がアップされている。地獄で笑顔でピースサインなんてイカしている。
この天国twitterで母親に聞きたい事は「母親の人生は幸せだったのだろうか?」
そしてもう一つ、子供の頃スナック菓子を食べている私に「そのお菓子の袋に鼻くそいれたからね」と言っていたけど、あれは本当なのか?
とにかくこの2つだけを聞きたい。
posted by kyoko at 14:32| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月02日

ありのままって何ですか?

外から小学生の合唱が聞こえる。
ここ毎日「ありのままに〜」と今とても流行っている例の歌が聞こえてくる。
子供達は何にも考えないで歌っているけど、私は「君達はそんなに抑圧されているの?」とふと思ってしまう。
この映画を見た事無いし、何を意味して「ありのまま」って言っているのか分からないけど、仮に私がありのままに生きたらとんでもない事になってしまいますよ・・・と少し苦笑い気味に思う。
「ありのまま」とか「自分らしく」とか「自然体」という言葉は聞こえはいいけど、本当のところ私には良く分からない。
子供の頃から常に普通でありたいと思っていた。
人と同じように、思い考え行動する。それが孤独にならない事だと何となく思っていた。
でもその反面、中学生頃になると学校で流行っている皆が「良い」という物に同意しない自分もいた。
普通でありたい、浮いた存在になりたくないと思っているのに矛盾している。

孤独になりたくなければ、大多数と同じ考えでいるのが大切なんだ。
「ありのまま」になるには孤独に耐えられる精神が必要なのではと思う。
そして孤独である人はカッコいいとも思うのです。

「ありのまま」を推奨するならもっと世の中が変わらなくてはダメなような気がします。
まず最初に「友達100人つくるんだ」という歌を即刻廃止するべきです。
ありのままの自分を100人の人が受け入れてくれる訳ないのだから。

たかが子供達の歌声でそんな事を思ったので書き留めてみました。


posted by kyoko at 14:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする