2017年11月30日

「My BooK vol.6」に参加しております。

大変大変ご無沙汰しております。
今年の一月に更新したきりのブログなんて誰も見ていないとは思いますが。。。

外苑前のgallery DAZZLEにて開催されている「My BooK vol.6」に参加しております。

「My BooK vol.6」12月03日(日)まで。月曜休
gallery DAZZLE http://gallery-dazzle.com
今更ですが宜しくお願いします。

私は今まで見た映画の絵を描きました。
instagramやTwitterに絵の一部ですがアップしてます。
instagramはこちらです。

Twitterはこちらです。

IMG_6732.JPG
IMG_6733.JPG

ブログに書きたいことは度々思いつくので、今度こそはちゃんと書いていこうと思っております。
Facebookは退会しましたが、Twitterやインスタをやってみて、ブログが一番大切なのではと思いました。
わざわざアクセスして見に来ていくださる人がいるということはありがたい事です。

本当にありがとうございます。
また思ったことを書いていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
posted by kyoko at 01:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

襲ってくるのは昔のスケッチブック

こうやってうだうだしているうちに1月も終わってしまいます。
去年の年の瀬に「今年も何にもしなかった。何やっているのだろう」と落ち込んだのもつかの間、1月に入りまだ何もやっていない。そう、これが私なんだよ…なんて開き直っているからタチが悪いのです。

年があけてやっと重い腰をあげ少しずつ部屋の片付けをしています。
夜中にゴゾゴゾといらないものをゴミ袋につめる作業、ただそれけなのになかなか進みません。
片付けで一番手こずるのは紙類です。
昔の写真、展示のDM、絵を描くためにプリントアウトした写真やスケッチブック、役所の書類などこれらを分類するだけの作業なのにすぐに手が止まってしまいます。
そしてちょっと油断をしていると、紙は私を襲ってくるのです。
写真や手紙からはノスタルジーがズンズンと襲ってきます。
そのノスタルジーってやつは容赦なく私を孤独の沼の奥深くに連れて行きます。
真っ暗闇のなかで「寂しいよー」と叫んでも声は孤独の沼に吸い込まれて、当たり前だけど写真に写る人は誰も気づかない。
一体何が寂しいのか、変わってしまった自分か、全く変わらない自分か、写真の中にしかいない人のことなのか。

そして何より一番手ごわいのはスケッチブック。
クロッキーや、下書き、アイディアスケッチがつまったスケッチブック。
このスケッチブックが束になりずんずんと私を襲ってくるのです。
すごく下手くそな絵だけど、ただただ無我夢中に何かつかもうとした息遣いが詰まっているスケッチブック。
もう何年も見ていないスケッチブックなのだけど、「あっ、このアイディアスケッチすごくいい!なんで絵にしなかったのだろう」と、このアイディアスケッチを昇華させようなんて思ったりしていると、
このスケッチブックの中に潜んでいる過去の私が「お前、何やってるんだよ!」と怒ってくるのです。
私はこのスケッチブックにやられっぱなしで、夜中にものすごく気持ち悪くなるのです。

私が怖いのは孤独なんかより、過去の私なのかもしれない。それは今の私がダメダメだから、昔ほど無我夢中ではないからです。
スケッチブックよ、ごめんね。来年はあなたに怒られないようにするからとそっと撫でました。


ということで、遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
まだもう少し頑張っていこうと思います。

今年の年賀状の絵です。
2017nenga.jpg




posted by kyoko at 02:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

阿佐ヶ谷の孤独の宇宙

昔阿佐ヶ谷に一人暮らしをしていた頃。
ある日その阿佐ヶ谷のアパートの扉を開いて、足を一歩踏み入れると暗くて冷たい床にストンと吸い込まれてしまいそうな気がしたから、トンッとジャンプしてベットまで潜り込んだ。
そうしないともう戻ってこれなそうだから、そこはきっと深くて冷たい底の底だから。
それからというもの家に帰り扉をあけてすぐにベットにジャンプして潜り込む日々だった。

ある夜、私は芋虫のように丸まってベットで寝ていたら、ベットの中に何かが横たわっていることに気づいたんだ。
いつからいたのかさっぱりわからないけど、それから毎日真っ暗で冷たい何かがずっとベットの中にいて、私にひっつくように横たわっているんだよ。

アパートの外に出るとどこに行ってもグレーの霧が私につきまとっていて、目の前はいつでもモヤモヤしていて、息の仕方がわからなくなってしまうほどで、苦しくて苦しくて仕方ないからずっとベットの中に芋虫のように丸まっていた。
喋る人なんてだれもいない、ベットの中だけが私の居場所で、いつのまにか真っ暗の冷たい何かが私の唯一の友達になっていて、私は毎晩抱きしめて寝るようになったんだ。
そうしているとなんだか溶けるような、私の体が真っ暗に混じっていくような感覚になって、その感覚がドキドキするほど気持ちよかったんだよ。

もうね、私はその真っ暗の冷たい何かが隣にいるのが心地よくて、最初の怖さが嘘みたいに心地よくてずっとずっと抱きしめていたかったんだよ。

そんな日々がずっと続いていたのだけど、そんな毎日に飽きてきたのか、その日私はジャンプしないでゆっくりと床に足を落としてみたくなったんだ。
そーっと足を落としてみると、スーっと冷たい風が足の裏をくすぐる。
そしてまるでブラックホールのようんに、するすると私の体は床のずっと奥に吸い込まれていったんだ。

どこまで吸い込まれるのだろう、ちょっと怖かったのだけど、それよりもふっと体に触れる冷たい風が、吸い込まれる感覚がとても気持ちよくて、今でもたまにあの感覚を思い出すけど、そのたびにとうっとりとしてしまうの。
それは多分底なしで、宇宙に近づいているような、いえ宇宙だったのかもしれないと今は思うんだ。

あのアパートから引っ越して、もうあの底なしの真っ黒に溺れることはなくなったけど、たまにあの感覚が懐かしくもなるんだ。
阿佐ヶ谷のアパートの真っ暗で冷たいあいつと、
そしてあの底なしの真っ暗の床に、宇宙と繋がっている床に身を任せたくなるんだよ。
永遠に帰ってこれなくてもいいくらい、心がとけるくらい心地よかったんだよ。
posted by kyoko at 05:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月02日

紫陽花の中に、だんだん見えてきた。

本当にご無沙汰してます。
こんなにも何も書かないから、もう誰も見ていないことだし、思いっきり好きな事が書けます。

あっという間に今年もやってきました。
梅雨の前の一番好きな季節でもあり、ある年を境にいろんな感情が湧きでて渦巻く季節にもなりました。

紫陽花が好きな母は6月1日が誕生日で、だけどもよっぽど年を取りたくなかったのか、13年前の5月31日にもう歳をとらないって決めました。
母がそう決めたのだから、いや、そうせざるえなかったのかもしれないけど、どちらにしろ私は何も言えないし、何もできない。
それは母の人生でもあるから、だけど思うのは、あれから何度も何度も思うのは「母は悔いのない人生を送れたのか」ということ。

それは私自身に常に向けられていて、「いやまって、私こそ後悔だらけの人生だよ。」と
でもきっと死ぬ前は、すべての出来事に自分を納得させるために、たとえ後悔だらけの人生だったとしても
「あゝ、楽しい人生だったよ」と、そう思うに決まっている。

私という人格だから故のすべての行動も、今あるこの現状も丸ごと全部受け入れて、愛おしくなるほど受け入れて、そうやって死んでいくのだろうな。
母もきっとそう思ったと思う。

思えば母の人生は壮絶だった。私から見ればだけど、かなりの楽天家ではないとやっていけないだろうな。
私は、そんな母を見て学んで今の私が形成されている。かなりの部分はそれが占められているのが分かる。
この事は、またいつか忘れないように書きたいと思います。
なんだろう、良くも悪くもだんだん見えてくる、自分の中が。
それは楽しいことでもあるけど、苦しいことでもあります。
でもきっと、それを知ることが母を知る事でもあるような気がします。



posted by kyoko at 22:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月12日

今年もよろしくお願いします。と去年みた映画のことです

このブログを初めて10年位はたつと思います。
最近は本当にたまにだけど、「ブログもっと更新して」と言われて嬉しいやら恥ずかしいやらですが、そう言ってもらえることがとても嬉しいですし、励みになります。
書いている時は「誰も見ていないし〜」と卑屈になってますが。
書きたい事は頭の中をグルグルしているのだけど、なかなかまとまらなくて。
でも少しずつ出して行きたいと思いますので今年もどうぞよろしくお願いします。


そして、今更ですが昨年観た映画で心にのこっているのを書き留めておきたいと思います。

マットマックス 怒りのデス・ロード
神々のたそがれ
ザ・トライブ
さよなら、人類
グリーンインフェルノ
ヒューマンハイウェイ


マッドマックスは前作からのファンで、1と2までのメルギブソンのかっこよさに鼻血が噴出してました。
一番すきなのはマッドマックス2で、それに出ていたモヒカンと金髪のゲイのカップルもカッコいいのだけど、モヒカン男はお尻の部分を丸くりぬいた革パンツをはいていて、いつもお尻プリプリしているし、もうエー!エー!の連続でした。
しかし、3あたりからメルさんが後ろ髪を伸ばしだしてからは「う〜ん」と目眩がしてしまったのですが。

それで今回のマッドマックス、内容は単純明快なんだけど、前作以上に狂っていてかっこ良くて、監督も前作と同じじジョージ・ミラーで、もう70過ぎているのに、それなのにこんな狂った映画つくってしまうなんて私はひれ伏すしかなかったのです。
こんな凄いのを観てしまったら、もう何を観てもつまらないと思う程です。


「神々のたそがれ」はとにかく訳分からないのだけど、凄い映画をみてしまった!と暫く興奮してしまいました。
映画を見ている人の事なんて一切考えていないと思えるほど訳分からないのです。
とにかく汚い、糞尿と湿気だらけで不快だし、この場面はいったい何をしているのか、何を意味するのかさっぱり理解できないのだけど、それでも強烈に心に刻まれる映画なのです。
けして誰にも勧められないのだけど、とにかく凄いので映画がもの凄く好きな人は観て損はないです。
注意しなくてはならないのはこの映画がもつパワーにやられてしまって見終わってぐったり疲れるので、睡眠は十分とってから観た方がよいです。
確か原作の小説があってそれが「神様はつらい」だったと思いますが、見終わって本当に神様はつらいな〜と、それと無知って本当に嫌だなと思わせる映画でした。


「ザ・トライブ」は全員ろうあ者が出てる台詞も字幕もない手話での映画なのだけど、こういう表現方法もあったのか!という衝撃がありました。
手話での喧嘩は動物のようで野性的だったり、神秘的だったりするのです。

これを観たら田原総一郎が監督した「あらかじめ失われた恋人たちよ」という映画を思い出しました。
これもろうあ者のカップルの話なのだけど、(出ているのはろうあ者ではない普通の俳優さん)、主人公の男は健常者なのだけど、このろうあ者のカップルが手話する姿を見て神秘的で官能的だと感じこの二人に魅せられるという話なのです。
私もカレー屋さんの隣に座ったカップルが手話をしていて、そ私には分からない秘密のやりとりがとても神秘的だったのを覚えています。


などと映画の事を一気に書きましたけど、映画は観て直に感想を書いた方がよいですね。





posted by kyoko at 03:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月25日

イボンヌ姫の反乱

大変ご無沙汰してます。ご無沙汰しすぎてもう今年も終わってしまいますね。
この忙しい年の瀬にそれでも私はお気楽に、のんきにかまえています。
たとえ大腸がん検診にひっかかって、大腸内視鏡の検査を受けなくてもならなくても。
心当たりはあるんです。その事は病院の先生にも言ったんです。私には20年来の友がいて、その友の事を私はイボンヌ姫と呼んでいるのだけど。。。そうお察しのとおりイボ痔です。
私と一番近い存在だけど、顔も見た事がない、一生見る事がないイボンヌ姫。

イボンヌ姫の存在を初めて知った20年前、それは最初はビックリしました。
肛門科の病院にいくと先生は、「このままでも大丈夫だけど、お嫁に行く前にとっておく〜?」と言うから、まだ夢や希望があった私はイボンヌ姫がいるとお嫁に行けないのかと思い、一度レーザーでとったんです。
お嫁に行く前に他人にお尻の穴をさらけ出すのもどうかとは思ったけど。
だけど数年したらまたぴょこんと生まれたイボンヌ姫。これはもう生きているとしか思えなくなり、共存する事にしたのです。

一緒に生きると決めたイボンヌ姫は普段はおとなしく洞窟の中にちょこんとひっそりと佇んでいるのだけど、徹夜した日や、お腹の調子が悪い時に顔をだすのです。
「ちょっと休んで下さい」と伝えるためにちょこんと顔を出してくれているようで、可愛い姫なんです。

それだけではなく、イボンヌ姫は私を救ってくれます。
会社勤めの頃、上司のパソコンのコンセントを誤って抜いてしまった時、どう償って良いかわからないので
「誰にも言えない秘密をおしえますので許して下さい。」といいイボンヌ姫の存在を話したら大笑いして許してくれました。

そして、もし友達が何かに悩んでいて笑う事もできない程落ち込んでいたら、私は迷わずこのイボンヌ姫を友達に見せようと思うんです。
きっとイボンヌ姫を見たらどんなに辛い事も吹き飛ぶ程笑えるのではないかって思うのです。

そんな怒った上司も、落ち込んだ友も笑顔にさせる力をもつイボンヌ姫。
あぁ、心優しいイボンヌ姫、きっと辛い事があったのでしょうね。
血の涙を流して訴えたのですよ。

私はそう信じてます。これはただのイボンヌ姫の反乱だって。


posted by kyoko at 00:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月29日

「ポスターを描く」無事終わりました。お越し頂きありがとうございました。

無事展示は終わりました。沢山の方に足を運んで頂き本当にありがとうございました。
展示をする度にいつも思います。わざわざ見に来て頂ける事が本当にありがたいなと。
私は展示してもあまり意味がないのではないかと、時々思ってしまうのです。
だけど、一緒に展示をしたイラストレーターの方やデザイナーの方もみなさん良い方ばかりでとても楽しくて、展示してよかったなと、終わってみると思うのです。

そして、久しぶりの友達と沢山お話しできたり、はじめての方とのお話も、この展示がなかったら存在しない会話で、それは瞬間に消えてしまう言葉だけど、家に帰ってふと気付くと思い出し笑いしたり、関心したりしてます。
私と色々お話していただきありがとうございました。

そして一緒に組んで私の変な絵を広い心で受け止めてくれたデザイナーの塚本さんにもとても感謝しております。
この絵もポスターもとっても気に入っていてもし個展をする事があったらまた展示したいと思います。

今回のこの哺乳瓶の容器のブランデー「デュカスタン ファザーズ・ボトル グラン・アルマニャック」のお題があったから生まれた絵です。

それがこのブランデーです。
wineuki_9903000000029.jpeg


本当に素敵なポスターになりました。
IMG_0178.jpg

posted by kyoko at 01:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月16日

「ポスターを描くvol.6」に参加してます。

こんな誰も読まないようなブログに文章を垂れ流している暇があったら絵を描けと思っていたのだけど、絵を描いていた時の方がブログも更新していたし、こうして全く更新しない時は絵もあまり描かないものです。
週に3枚も描いていたあの時はなんだったのだろうか?
もしかして自分には何かあるのかもしれないという思いが確かにあって、そして暫くして、やはり何もなかったんだという気持ちに支配され始めて、それでも駄作だらけだけど描いて行こうと何度も思う、その繰り返しなのよ。
この文章だって、絵だって私の身体を通して出て来た排泄物だし、でも私はそんな自分の排泄物を溜めて溜めて、蓋をしても漏れてしまう臭い匂いを誰かに嗅がせたいって思っている事は確かなのかも。


それで、告知がおそくなりましたが、
ギャラリーダズル「ポスターを描くvol.6」に参加してます。
10/13火〜10/25日12:00〜19:00 最終日17:00まで10/19日月休廊 
http://goo.gl/JZ0K7Y
毎年恒例の展示で、イラストレターとデザイナーさんが組んでポスターを制作したのを展示します。
私はフランスのブランデーのポスターを描きました。そのブランデーのボトルが哺乳瓶の形をしています。
別名「大人のミルク」というそうで、そのボトルを見たらオッパイを描きたくなって、オッパイを沢山描きました。
一緒に組んだデザイナーさんからは「自由にのびのびと好きに描いていいよ」と言って頂きました。
バカな絵だな〜と笑いながら描きました。そしてそんな絵をデザイナーさんが素敵に仕上げて頂きました。
出来上がった絵は自分でもとても気に入っていて、さらにデザイナーさんがとてもお洒落でありながら怪しくデザインしてくれてとっても気に入っています。

他の方のポスターも皆素敵で、印刷方法に凝っていたり、いろんな仕掛けがあったりととても見応えがあります。

もしお近くに来た際には覗いて頂けたらとても嬉しいです。
posted by kyoko at 23:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月19日

何度も同じ悲しみは嫌なのよ。

夕べ見た夢は母親と買い物に行ってとても楽しかったのに、その夜に母親が死んだと連絡が入る夢。
私はもの凄く悲しくて泣きながら目覚めたのだけど、窓から入る朝日が鋭く現実の矢となり突き刺してくれて、「あっそうだ。母親はもうとっくの昔に死んだんだ」と気付き、それでも夢の中で体験した悲しみは現実に一度体験しているから悲しみがリアルで、目覚めて暫く心の悲愴はどっしりと残っていて憂鬱になるわけです。
もう2度と同じ悲しみの体験は繰り返したくない、同じ夢は見たくはないわ。
今後これ以上の悲しみはあるのかしら?
などと思っていたらもうすぐ母親の命日なのです。
でもそうして思ったのです。
私が今迄生きてきて沢山の人と出逢ったけど、多分もう一生逢わない人の方が遥かに多いのです。
その逢わない人はこの地球上でちゃんと生きているとしても。
逢わないという事は同じで、違いは生きているが死んでいるかという事だけ。
その違いだけなのだから、人の死って私が死ぬ迄のしばしの別れなんだよね。

母は広い世界を見たかったから、念願だった放浪の旅にでて、たまに手紙でも書いてくれればよいのにそんな事も忘れるくらいきっとその旅は楽しいのでしょう。
私もいつの日か旅にでたいのだけど、まだまだ暫くはその準備ができそうになくて、
でもその旅は本当に一番の楽しみなんだ。
あの時私は、きっと直には逢えないだろうなと思っていたからそれほど驚きはしないよ。
posted by kyoko at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

価値観から自由になるために

昔々お付き合いをしていた男性が私が持っているレコードを見て「このレコード全部捨てろよ。ダサいから」と言われて私が大好きなミュージシャンをバカにされたのも悲しいけど、そんな事とやかく言われる筋合いはないと相当頭にきて「あなたとは価値観が違い過ぎるからやっていけないわ!」と言ったら「価値観なんて違うのに決まっている事だ。早く捨てろよ。」と今思い出しても胸くそ悪い事言われ、私は泣きながら友達にレコードを一時保管してくれないかと電話した。
価値観が違うのは分かっているけど、その価値観が不快に思うのなら付き合って行く事は無理なんだ。
でもその男は付き合い始め私の持っているレコードを見て「いい趣味しているね。」と言ったのだけど、あの言葉は嘘だったのか。。。。

なんでこんな事を思い出したかというと、
私は私の事を好きな人が好きだし、私と性格が似ている人が(全くではなくて、思考の方向性が)好きだし、好きな映画や好きな音楽が似ている人が好きで、友達になりたいなと思う人はそういう人がいいとずっと思っていて、今でもそれは変わらない。
そして私にとって一番大切な事は「自由」で、自由な音楽、自由な絵に出逢うと涙がでるほど感動して抱きしめたくなり、私ももっともっと自由に何も恐れずに自由になろうと思う。
全てから解放されて自由になりたいと思う。若い頃は自由とは、好きな時に起きて、好きな時に旅行に行き、好きなときに出かけてなんの束縛もなく帰りたくなったら家に帰るというのが自由だと思っていて、でもその自由は違うと気づき、どんなに時間的に自由がなく束縛されていても心の中はいつだって自由で、何を妄想しようと、どんな考えだろうと、どんな絵を描こうとその自由さえ保たれれば多少の不自由でもやっていけると思うようになった。

でももし私のように自由が一番大切で、同じような価値観の人ばかりだったら世界はどうなるのだろう。
もの凄くつまらない世界になるのではないかしら?発展もしないのではないかしら?個性という言葉さえもなくなるのではないかしらと思うとちょっと怖くなってきた。
そう思うと価値観は人それぞれ違う方が良いし、違っていても好きだったら理解はできなくても尊重する事ができれば友達にもなれるしその方が楽しめる。
そして尊重してもらう為には、私が価値を見いだしたものを全く興味ない人に好きになってもらえなくても、それがなんで素晴らしいかという事を相手に分かってもらえる術が必要で、
それは自由になるためにとても大切な事なのではないかしらと思うのです。
そして私が逆の立場になっても価値観の違う人の言葉を聞き入れるスペースも作り、自分との差を確認はするけど、価値観の違いは悪ではないと思うようにする事が本当の自由なのではと考えていたらあのバカ男の言葉を思い出したという事です。




posted by kyoko at 01:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする